「てぶくろを買いに」を分析する#1

「てぶくろを買いに」を分析する#1
(完成していません。まだメモ書きです。)

(私信:これはPocketPCを使って電車の中で書きました。パソコンで夜ふかしはしていません。あしからず)

#1 キェシロフスキの手

キェシロフスキ・コレクションの予告編を監督した人のインタビューがDVDに収録されているのだが、そこで彼がキェシロフスキ映画を観るときに「手」に注目してほしいと語っていた。

「手を(アップで)まず映す。それから、手が動いて、何かをつかむ。つかまれる何かをまず映すのではなく、手だけをを映す。つかまれる何かという結果を映すのではなく、過程を映している。」

これはキェシロフスキに限ったことではない。TVの二ュース番組でどこかからの中継のとき、レポーターを映す前に背後のビルなどの背景を一旦映した後、カメラが動いてレポーターが画面に入ってくるということがよくある。

実は、場面が変わる場合に、いったん背景を映し、それから人物がフレ一ムに入ってくるというのは、映像による演出のセオリ一なのである。

なぜ、直接レポーターを映さないで、背景にカメラ(観る人の視線)を向けるのか?

理由としては次のようなことが考えられる。

1.説明
 場面が切りかわっても、観る人がそのことを認識するには時間がかかる。そのためにまずは人物の写っていない、つまり情報量の少ないところを映し、そこから徐々に情報を増やすことで、理解しやすくする。

2.リズム
 1.と重なる部分もあるが、リズムをつくりだす効果もある。人物が動いたり、話したりするのを急とすれば、背景を映すのは緩といえる。急の場面は観る人に集中することを要求するが、長い時間集中し続けるのは難しい。そのため急の場面の前後には、集中する必要のない緩の場面を置いて緩急緩急というリズムでメリハリをつけるのである。

3.謎かけ

しかしながら、キェシロフスキ映画の手は、こういった効果だけを狙ったものではない。

手という体の部位は、人の体の中でもっとも道具的なものだ。人の行為の多くが手を介在して行われることに異をとなえる人はいないだろう。

また、手は言葉や顔の表情と同じく人の気持を(意識的にも、無意識的にも)現すものでもある。

手は道具にもなり、顔にも言葉にもなりうる。可能性という意味において、最も自由度の高い部位なのである。

つまり、手のアップとは、観る人の注意を、手が秘めている無限の可能性へとひきつけるということなのである。

だから、何ももっていない手。だが、まさしくこれから何かをはじめようとしている手を観るとき、人はー種のミステリーを体験する。

この手はいったい何をしようとしているのか?
いったいどこに向おうとしているのか?
この手にはどんな意図や気持ちが込められているのか?

人は生まれながらの心理学者だといわれている。人と対面したとき、言葉だけでなく表情やしぐさから、その人の内面を推し量ろうとしてしまう。特にその人に注意を向けている場合には、内面を推し量らないでいるほうが難しい。

手のアップは、それだけでミステリーとなる。手のアップを観る人は否応なしにそのゆくえを追うことになるのだ。