フラットな格差社会

 格差がひろがっている、ということが言われ始めて久しい。中には、もの心ついたら、そんな社会だったという人もいるかもしれない。けれども、わたしが子どもだった頃のことを考えてみると、30年以上前だが、普通の人はもっと貧乏だったし、お金持ちというのはもっと遠い存在だった。
 ドラマなどで描かれる典型的な大金持ちには、豪邸で、暖炉があって、シャンデリアのしたで、すごいカーペットの上にある、ソファに座り、ブランデーグラスをゆらゆらさせている、というものがあるが、わたしが子どもの頃には、もうそんな生活は自分とはまったく無関係だと思っていた。無関係なので、なりたいとか、うらやましいというようなことは、ほとんど感じず、むしろ、すげー、と思うだけだった。ま、わたしがそういう性格だったということもあるでしょうが。

 ところがいま、豪邸は無理でも、シャンデリアぐらいはなんとか無理すれば買えそうだ。暖炉ともかく、カーペットにしろソファにしろ、ブランデーもグラスも、わたしがそれを強く望むのならば、なんとか手に届きそうだ(実際に手に届くかどうか、ほしいかどうかはともかく)。

 わたしが子ども頃、電話に1万円も使うと、相当無駄遣いだと、怒られた。だから未だに、電話は使いたくないのだが、多くの人々は、いま、一世帯あたりで、どのぐらい電話料金を払っているのだろう? 昔からすれば、何倍にもなっているのではないか。

 一方で、物価は安くなった。正確に言うと、上がって、下がったのだけど、生活に必要なものは、雑貨にしても衣料にしても、安い。100円ショップやユニクロなんかのおかげだろうけど。なんでもが安い。自転車なんかも、盗まれて大変!、といっても、今と昔じゃぜんぜん感覚が違う。傘なんて、使い捨てのようだ。

 金持ちに対する目もちがう。今では、あいつは、あんなに金持ちなのに、なんでおれは、金がないんだ、という感じで格差社会と言ってる。でも、そんな風に比較できるほどに、金持ちは近い存在になったのだ、とわたしは思う。くりかえすが、わたしの子どものときには、金持ちでいいなあ、という気持ちはあっても、なんで俺たちは貧乏なんだろう、とは思わなかった。なんかそういうもんだと、みんな思っていたからだ。

 ようするに、格差が縮んだから、格差を気にし始めたのではないかということを、わたしは言いたいのだ。

 局所的なことを排除して、全体を見れば、あきらかに日本全体は下降している。ずっと、下降していた。ちょっと前までは、薄型TVやハードディスクレコーダー、携帯電話、インターネットというものが、普及していくことで、なんとか物が売れていた。けれども、それも飽和してしまって、人々が新しく、どうしても、高い金を払ってでも欲しい、と思う物がなくなった。
 そうなったときに、社会全体の景気というのは、下降していくしかない。

 いまの若い人たち、特に平成生まれの人たちは、日本がもっとも豊かなときに生まれ、あとは下降していくところしか知らない人たちだ。38歳の私とは異なり、子どものときにあったのは、豊かな感覚だろう。しかし、子どもには、それは豊かではかく、当たり前と感じられる。当たり前だったものが、大人になるにつれ、どんどんできなくなっていく。ふと、隣を見れば、自分より豊かな人がいる。ああ、格差だ。と思う。

 でも、本当のところは、全体が下降しているのだ。局所的には、上昇しているところもあるかもしれないが、格差自体はひろがってはいない、むしろ、大金持ちもいなくなってきている(財閥が合併したのが良い例だ)。フラットになってきている。わたしは別に金持ちではないが、いまの暮らしは、子どもの頃に比べれば相当豊かだ。
 ただ、全体的に確実に下降している。30年前の水準に戻ろうとしている。
 それは、豊かな時代に生まれた人間にはつらいだろうと思う。

 ただ、30年前でも、みんなそれなりに楽しく暮らしていたのだ。なんとかなる、とわたしは思う。