選択肢は常に三つある

選択肢は常に三つある。

 肯定
 否定
 なにもしない

なにもない、ということはなにもないこと。

 ある人物に対し、好意を持つ、あるいは、嫌悪を抱く。どちらかしかない、と思いがちだが、実際にはもうひとつの選択肢、無関心、がある。
 好きだと思う場合は当然として、嫌いだと思うことも、その人に関心があることを示している。
(無関心を上に、好意と嫌悪を底辺の両端とする三角形を思い浮かべる)

 無関心、すきでもなくきらいでもない、多くの人物に対して、ふつうはそうだろう。
 しかし、多くの場合、その人物について知らないから、無関心であるといえる。
 よく知っていながら、無関心である、というのとは、意味が違う。

 何かを言うこと、、思うこと、知る事。それによって、選択肢は三つになる。

 しかし、他人から何かを言われることは、なにもしない、という選択肢を消してしまう。他人から言われたことに対して、なにもしないことは、否定していることと同義だからだ。


「457. そう、思うということは、誰かに近づいていくようなものなのだ。 」
ウィトゲンシュタイン哲学探究」ミック訳
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html 

フラットな格差社会

 格差がひろがっている、ということが言われ始めて久しい。中には、もの心ついたら、そんな社会だったという人もいるかもしれない。けれども、わたしが子どもだった頃のことを考えてみると、30年以上前だが、普通の人はもっと貧乏だったし、お金持ちというのはもっと遠い存在だった。
 ドラマなどで描かれる典型的な大金持ちには、豪邸で、暖炉があって、シャンデリアのしたで、すごいカーペットの上にある、ソファに座り、ブランデーグラスをゆらゆらさせている、というものがあるが、わたしが子どもの頃には、もうそんな生活は自分とはまったく無関係だと思っていた。無関係なので、なりたいとか、うらやましいというようなことは、ほとんど感じず、むしろ、すげー、と思うだけだった。ま、わたしがそういう性格だったということもあるでしょうが。

 ところがいま、豪邸は無理でも、シャンデリアぐらいはなんとか無理すれば買えそうだ。暖炉ともかく、カーペットにしろソファにしろ、ブランデーもグラスも、わたしがそれを強く望むのならば、なんとか手に届きそうだ(実際に手に届くかどうか、ほしいかどうかはともかく)。

 わたしが子ども頃、電話に1万円も使うと、相当無駄遣いだと、怒られた。だから未だに、電話は使いたくないのだが、多くの人々は、いま、一世帯あたりで、どのぐらい電話料金を払っているのだろう? 昔からすれば、何倍にもなっているのではないか。

 一方で、物価は安くなった。正確に言うと、上がって、下がったのだけど、生活に必要なものは、雑貨にしても衣料にしても、安い。100円ショップやユニクロなんかのおかげだろうけど。なんでもが安い。自転車なんかも、盗まれて大変!、といっても、今と昔じゃぜんぜん感覚が違う。傘なんて、使い捨てのようだ。

 金持ちに対する目もちがう。今では、あいつは、あんなに金持ちなのに、なんでおれは、金がないんだ、という感じで格差社会と言ってる。でも、そんな風に比較できるほどに、金持ちは近い存在になったのだ、とわたしは思う。くりかえすが、わたしの子どものときには、金持ちでいいなあ、という気持ちはあっても、なんで俺たちは貧乏なんだろう、とは思わなかった。なんかそういうもんだと、みんな思っていたからだ。

 ようするに、格差が縮んだから、格差を気にし始めたのではないかということを、わたしは言いたいのだ。

 局所的なことを排除して、全体を見れば、あきらかに日本全体は下降している。ずっと、下降していた。ちょっと前までは、薄型TVやハードディスクレコーダー、携帯電話、インターネットというものが、普及していくことで、なんとか物が売れていた。けれども、それも飽和してしまって、人々が新しく、どうしても、高い金を払ってでも欲しい、と思う物がなくなった。
 そうなったときに、社会全体の景気というのは、下降していくしかない。

 いまの若い人たち、特に平成生まれの人たちは、日本がもっとも豊かなときに生まれ、あとは下降していくところしか知らない人たちだ。38歳の私とは異なり、子どものときにあったのは、豊かな感覚だろう。しかし、子どもには、それは豊かではかく、当たり前と感じられる。当たり前だったものが、大人になるにつれ、どんどんできなくなっていく。ふと、隣を見れば、自分より豊かな人がいる。ああ、格差だ。と思う。

 でも、本当のところは、全体が下降しているのだ。局所的には、上昇しているところもあるかもしれないが、格差自体はひろがってはいない、むしろ、大金持ちもいなくなってきている(財閥が合併したのが良い例だ)。フラットになってきている。わたしは別に金持ちではないが、いまの暮らしは、子どもの頃に比べれば相当豊かだ。
 ただ、全体的に確実に下降している。30年前の水準に戻ろうとしている。
 それは、豊かな時代に生まれた人間にはつらいだろうと思う。

 ただ、30年前でも、みんなそれなりに楽しく暮らしていたのだ。なんとかなる、とわたしは思う。

リアル指向

普段、テレビを見ていないのだが(というかそもそもテレビにアンテナがつながっていないしコンセントも刺さっていない)、実家に帰ったおかげてTVを見た。幸い、ほとんどがオリンピックか高校野球で、これらの番組は、昔からキライだったし、とくに番組に変化はなく、最近のTVの凋落ぶりを目にせずにすんだ。

とはいえ、これだけあふれているコメディ番組を目にしないわけにはいかず、やはりその、どうしようもなさが目についた。たとば、さんまのまんま、とか。昔はあんなに面白かったのにねえ。

ケータイ&インターネットが持つ破壊力は凄まじく、雑誌も、テレビもやられっぱなしだし、料理の作り方やら、旅行案内やら、グルメ情報やら、もうはやなんでもみんなインターネットで無料、という世界だ。テレビが面白くなくなっているのは、よくわかる。雑誌だって面白いと思わない。

だからといって、インターネットがとんでもなく面白いともおもわない。(あるいは思わなくなった)昔は(というと老人の懐古主義のようだが)、インターネットはどこか特殊な人間が新しいものを見つけた、という雰囲気があったが、いまでは、残念ながら、その大部分が、暇を持て余している人々の場所という雰囲気になってしまっている(と私は感じている>現実はどうあれ)

たとえば、アルファブロガーという小飼という人に対しても、彼がお金持ちだし優秀なプログラマーらしいということも知っているし、そのブログもそれなりに面白いのだが、しかし、どうしても、暇な人だなあという感想を持ってしまう。

私自身がインターネットと、ずれてきているからだろうけど。

と、ここまでが実は前ふりで、本題はWiiのコマーシャルを見たことにある。

Wiiがゲームとして優れた発想を具現化した商品で、私もほしいなと思うものなのであるが、しかし、そのCMでおじいちゃんと孫が、楽しくWiiのテニスゲームをしているのを見て、私が率直に思うのは、だったら、リアルなテニスしたらいいじゃないの。ボールとラケット2本。1万数千円。ソフトよりは高いが、ゲームするよりいいんじゃないか? 

クーラーの効いた部屋で、それほど練習しなくても、力を入れなくても、ぽんぽん打てるから、ゲームの方がいいって? まあ、だから、仕事もせずに引き蘢ってインターネットやってる奴が増えちゃうわけでしょうが。汗水たらして、重いもの持って、嫌なことにも耐えて、そうやってお金を稼ぐってことの意味が、部屋の中でゲームで、テニスをやった気になっている奴には、分からなくなってしまうでしょ。

というのは脱線。

Wiiにしてもそうだが、大失敗のセカンドライフも、あるいはGoogleストリートビューも(これらは、ボルヘスの「実物大の地図」を思い出させる)、ほんと、だったら外に行ったら? と思ってしまう。

これからが本題。

実のところ、外に出る、というのが、いま私のなかで向かっている方向なのだ。十代も二十代も本とマンガとゲームと映画だった人間が。

子どもの頃あんなに嫌いだったキャッチボールが、実に楽しい。この炎天下だと、10分もやれば汗だくだ。息も上がる。しかし、そのあとの麦茶がうまい。Wiiをやったのでは、この味はありえない。子ども頃、嫌でもやったから、いま、子ども相手にキャッチボールしても、子どもより上手い。(いずれ追い抜かされるとはいえ)

あたりまえだが、散歩するにしたって、汗だくになる。それでも街を探索するのは面白い。知らない路地に入る時のワクワク感は、ストリートビューではあり得ない。

だから、みなさん、家を出ましょう、というような教条的な主張をするつもりはない。(ま、その方がいいと思うけど、それが主旨ではない)

これからのトレンドは、Web3.0なんていうようなものではなくて、実際に身体を動かす、実際に出かける、実際に会う、まさにリアルが流行するのだと。たとえば、自転車はここ数年、流行している。もちろん一部の人だけだが。あるいは、スポーツやアウトドアもお金持ちでファミリーだと、かなりの確率で、やってます(私は金持ちじゃないのでやらせてませんが)。

私が何を言いたいかというと、未来を予測したとき、インターネットや携帯電話は、実用的な部分は残るけれども、娯楽の側面(コンテンツそのものを楽しむ)部分は小さくなっていくだろうと言うことだ。ブログのような。

もしそうだとするならば、TVも雑誌も新聞もガイドブックもいらない、ケータイかインタネット接続料を払うだけ、という世界で、リアル指向が流行したとき、いったい何が衰退し、なにが勃興するのか。それは、まだ考えていません。

カードゲーム

5枚のカードが配られる。ランダムに。
一枚ずつ、それを自分の場に置いていく。
一枚、カードをおくたびに、チップを一枚賭けなくてはならない。
そして、カードは必ず、直前におかれたカードよりも優れていなくてはならない。

けれども、何が何よりも「優れている」かについては、決まりがない。
何かが優れている。その理由をいわなくてはならない。

理由はどんな理由でもかまわない。
数が多いという分かりやすい理由がある。1よりも2、2よりも13の方が優れている。しかし、それを順位だとみなせば、13よりも2、2よりも1の方が優れている。あるいは、美しいでもいい。ダイヤの方がクロバーよりも美しい。スペードの1は、ダイヤの1よりも力強い。
なんだって、かまわない。

すべてのプレーヤーが5枚のカードをすべて出し切ってしまえば、ゲームは終了となる。
どのカードの組み合わせがいちばん優れているか。それにも決まりはない。
プレイヤーは、その組み合わせがなぜ一番優れているかを、説明する。そして、他のプレイヤーがそれに納得したとき、勝ちとなる。チップはすべて、勝ったものが受け取る。

一見、バラバラに見える5枚のカードに、なにか統一したものが見えるとき、プレイヤーは自らの偶然が、いつのまにか必然に変わっているのを知るだろう。バラバラの現実が、バラバラの感覚が、バラバラの感情が、バラバラの記憶が、まとめられている。

誰によって?

私が知りたいのは、その誰だ。

木村敏「分裂病と他者」

分裂病になる人は、子どもの頃から「いい子」だったと言われることが多い。現在私が診ている二一歳の女性は、中学生までは明るい人気者で、「人の悪口を絶対言わない、嘘は絶対につかない、誰にでも親切」という三つの際立った特徴を持っていたという。この種の「うらおもてのなさ」は、かなりの数の分裂病者に認められる特性であって、自己の内面における自他の「弁証法的」な関係が十分に成立していないことと深いつながりのあることだろうと思われる」
木村敏分裂病と他者」ちくま学芸文庫p.289


 あっさりと書かれているけれども、これはある意味とんでもないことを書いているのではないか。「うらおもてのない人間になれ」というのは、親も学校も、社会全体として、それが理想の人間であると謳っているではないか。「人の悪口を絶対言わない、嘘は絶対につかない、誰にでも親切」というような人間が、分裂病になるのだとしたら、社会は、まるで、分裂病になれと言っているようなものではないか。

「自己の内面における自他の「弁証法的」な関係が十分に成立していない」というのは、どういう意味だろう。結局、人間はみんな、「人の悪口は言うし、嘘はつくし、特定のだれかをえこひいきする」ものなのだ。たとえば、子どもに「赤信号では止まりなさい」といいながら、信号を無視するような、ある種のいいかげんさ、が人には必要だということだ。だからといって、「赤信号でもわたっていいよ」なんてことは言えない。ルールはルールだ。しかし、それは破られることもある。いいかげんに、あるいは時には意図的にルールを逸脱することもある。

 それは、矛盾している、と捉えられるかもしれない。しかし、その矛盾をみとめなければ、病になってしまう。私達は矛盾している。まずはそれが前提だ。

「覆いとしての絵画」内田樹の研究室より

内田樹の研究室より
http://blog.tatsuru.com/2008/07/25_1240.php

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古代ギリシャにゼウキシスとパラシオスという二人の画家いた。
どちらがより写実的に絵を描けるか、その技術を競うことになった。まずゼウキシスが本物そっくりの葡萄を描いた。
絵があまりに写実的だったので、ほんとうに鳥が飛んできて、絵の葡萄をついばもうとしたほどだった。
出来映えに満足したゼウキシスは勢い込んで、「さあ、君の番だ」とパラシオスを振り返った。
ところが、パラシオスが壁に描いた絵には覆いがかかっていた。
そこでゼウキシスは「その覆いをはやく取りたまえ」と急かした。
そこで勝負は終わった。
なぜなら、パラシオスは壁の上に「覆いの絵」を描いていたからである。
パラシオスの例が明らかにしていることは、人を騙そうとするなら、示されるべきものは「覆いとしての絵画」、つまりその向こう側を見させるような何かでなければならないということである。

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 小説を書くことは、自分を殺すことだ。

 作者は死んだ。それは、読者によって、あらたに作り出される虚構的な存在になる。作者はゾンビのように生き返った、読者によって蘇った、作者に似た誰かだ。その誰かを、読者は作者と思い込む。
 小説のリアリティは、その妄想のうちに現れた作者の存在感にある。

 私はそれを想像する。読者が想像する私を。しかし、それは正確なものではない。ひとりひとりの読者が、それぞれの作者を見ているからだ。

 嘘をつく、そうすることによって、現れるのは、その嘘をつかなければならない、誰かだ。
 本当のことを言うのに理由はいらない。
 嘘は、それが本当ではないというところに、つまり、それはどこかに創作された余地があるというところに、最大の意味がある。創作にはエネルギーが必要だ。体験したそのままを語るよりも、それをねじ曲げて、嘘をつくことには、労力のかかり方が違いすぎる。
 嘘には、何かしらの理由がある。理由なく嘘をつくことはあるかもしれないが、嘘に気がついた人は、そう思わない。

 嘘をつくには理由がある。多くの場合、何かを隠したいと思うからだ。何を?
 真実を。

 本当のことは恐ろしい。

 あなたは、自分の鏡を直視することはできない。どんなに美人であっても、どこかに瑕疵がある。自分を愛するならば、よけいに、その傷に気がつかないわけにはいかない。
 あなたは、嘘をつく。自分に。
 たとえば、化粧をする。
 しかし、それによって、その傷が余計に目立ってしまう。つい、その場所に手を持っていってしまう。

 あるいは、気にしないというフリをする。その嘘は、つい、わたしは化粧なんてしない、という強い主張となり、人に違和感を残す。

 けれども、人は、なにかにとらわれることなく生きていけるものではない。むしろ、「何に」とらわれれているのかが、その人の理由であると言える。

 その人は嘘をつく。
 私は嘘をつく。
 別の自分がいるという嘘。作者は別にいるという嘘。

 しかし、それは嘘なのか。
 そういう嘘をついているという理由までも、嘘として作り上げる労力は、いったい、何を隠すために行なわれているのか。

 それは私なのか。それとも私ではないのか。