「覆いとしての絵画」内田樹の研究室より

内田樹の研究室より
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古代ギリシャにゼウキシスとパラシオスという二人の画家いた。
どちらがより写実的に絵を描けるか、その技術を競うことになった。まずゼウキシスが本物そっくりの葡萄を描いた。
絵があまりに写実的だったので、ほんとうに鳥が飛んできて、絵の葡萄をついばもうとしたほどだった。
出来映えに満足したゼウキシスは勢い込んで、「さあ、君の番だ」とパラシオスを振り返った。
ところが、パラシオスが壁に描いた絵には覆いがかかっていた。
そこでゼウキシスは「その覆いをはやく取りたまえ」と急かした。
そこで勝負は終わった。
なぜなら、パラシオスは壁の上に「覆いの絵」を描いていたからである。
パラシオスの例が明らかにしていることは、人を騙そうとするなら、示されるべきものは「覆いとしての絵画」、つまりその向こう側を見させるような何かでなければならないということである。

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 小説を書くことは、自分を殺すことだ。

 作者は死んだ。それは、読者によって、あらたに作り出される虚構的な存在になる。作者はゾンビのように生き返った、読者によって蘇った、作者に似た誰かだ。その誰かを、読者は作者と思い込む。
 小説のリアリティは、その妄想のうちに現れた作者の存在感にある。

 私はそれを想像する。読者が想像する私を。しかし、それは正確なものではない。ひとりひとりの読者が、それぞれの作者を見ているからだ。

 嘘をつく、そうすることによって、現れるのは、その嘘をつかなければならない、誰かだ。
 本当のことを言うのに理由はいらない。
 嘘は、それが本当ではないというところに、つまり、それはどこかに創作された余地があるというところに、最大の意味がある。創作にはエネルギーが必要だ。体験したそのままを語るよりも、それをねじ曲げて、嘘をつくことには、労力のかかり方が違いすぎる。
 嘘には、何かしらの理由がある。理由なく嘘をつくことはあるかもしれないが、嘘に気がついた人は、そう思わない。

 嘘をつくには理由がある。多くの場合、何かを隠したいと思うからだ。何を?
 真実を。

 本当のことは恐ろしい。

 あなたは、自分の鏡を直視することはできない。どんなに美人であっても、どこかに瑕疵がある。自分を愛するならば、よけいに、その傷に気がつかないわけにはいかない。
 あなたは、嘘をつく。自分に。
 たとえば、化粧をする。
 しかし、それによって、その傷が余計に目立ってしまう。つい、その場所に手を持っていってしまう。

 あるいは、気にしないというフリをする。その嘘は、つい、わたしは化粧なんてしない、という強い主張となり、人に違和感を残す。

 けれども、人は、なにかにとらわれることなく生きていけるものではない。むしろ、「何に」とらわれれているのかが、その人の理由であると言える。

 その人は嘘をつく。
 私は嘘をつく。
 別の自分がいるという嘘。作者は別にいるという嘘。

 しかし、それは嘘なのか。
 そういう嘘をついているという理由までも、嘘として作り上げる労力は、いったい、何を隠すために行なわれているのか。

 それは私なのか。それとも私ではないのか。