圧倒的に非情になりつつある自分を感じる。
何事も、自分とは関係ないものとして感じ始めている。
もちろん、仕事はこなす。やらねばならないこと、やるといったことはやる。
けれども、自分のなかで、その優先順位が落ちていく事を感じている。
他人にはわからない。自分だけの変化だ。
そして、そのことを自分で強化するために、この文章を書いている。
書かなくてもいい文章を、私は書く。
向かうべきところへ、向かうために。

 今日は車検。子供を送ったあと、9時半までの30分を車でぐるぐる回る。ほんとはマクドナルドとかそのあたりでコーヒーを飲もうと思ったけれども、見つからず、結局スリーエフでハンバーガーとコーラを買って、駐車場の車の中で食べる。車の中はとんでもなく汚いので、ゴミっぽいものだけ、シャワシャワ袋に入れ、後部座席に置く。車検のときに、とりあえず邪魔にならないようにしておいたつもり。
 車検のためにディーラーにいくと、なんにもしないでも9万かかり、さらにその他の消耗品や部品などの費用がかかる。タイヤも交換せねばならない。金がどんどんなくなっていく。
 代車をたのんだということだったが(事前の予約で交渉をしたのは妻だから、ほんとのところはわかない)、ディーラーの方ではわかっていなかった。とわいえ、すぐに用意してくれた。でも軽自動車だった。別に不満はないが、5人乗りにしてくれないと家族全員が乗れないのだけど、と思うが、まあ、そういう機会があるとも思えず、無理すれば乗れるんだからいいかと思う。
 ちなみに、こういうときの代車って、客の乗っている車よりも1グレード上の新型にすればいいと思うんだけど、どうなんでしょう。だってさ、こんど買い替えるときに、あのときの代車がよかったから、それを買おうってことになるんじゃないだろうか。そうすればディーラ−としても儲かるわけだ。凄まじい広告費を自動車会社は使っているんだから、そういうサービスしてもいいのにね。ちなみに、借りた軽自動車は結構よいので、つまり、今度買い替えるときに、4人乗りでもいいやってことになったら、軽自動車にしてもいいと思うのであった。それはディーラーやメーカーとしてはどんなもんだろう。
 帰りがけに本屋へ寄る。休みの日にまで本屋へいく私は病気だ。
 「マイ・ベスト・ミステリー3」文春文庫を買う。
 帰ってからは寝る。
 2時に起きて、あいかわらずスパゲッティを作って食う。ニンニクと鷹の爪をオリーブオイルでいため、そこに昨日の夜の残りの牛肉とレタスを放り込んで、塩こしょう、バジルと粉チーズをふりかける。食っているところに、ちーが小学校から帰ってきて、ひとの昼食をつまみ食いし、宿題をちょっとやって、いとこの家へ遊びにいくといって家をでた。近頃、まったく父親にかまってくれない。
 腹がいっぱいになって、少々、新聞など読んだり、丸山健二「まだ見ぬ書き手へ」という本をぺらぺら、目の止まるところを読む。まあね。そうなんだろうね。
 4時に駐車場へいき、代車で保育園へ。
 このところ、いささか、父母会関係の人間関係に疲れていたが、こうして、避けずに(というか避けられるわけでもなく)なんども顔をだしていると、時間が解決してくれるものもあり、土曜のミーティングやらなんやらで、とりあえず、気持ちがもちなおす。とにかく何が何でもやらなくてはいけないことがあるというのは、実のところいいことかもしれない。嫌だ嫌だとおもっていても、関わっているうちに、だんだんそうでもなくなってくるからだ。根っこが悪い人たちではないというは、わかっているからでもある。
 代車に子供たちは興味津々。借りた車だから、きれいに使おうといって、おやつは家で食べようというと納得する。ほんとうは、借りた車じゃなくったって車でばりばり食ってはいかんのだが。
 魚の日ということで、義理の祖母から魚をもらう。夕食の準備はほとんどしなくてよくなったが、野菜がないので、大根を煮ようとして、大根をきったら、中が虫食い。ダシをとっていたので、急遽、じゃがいもとタマネギとネギを入れて煮る。あとは、米をといで、炊飯器にかけた。
 もうやることがない。みーとさとは、なんだかんだと自分達で遊んでいる。そういうわけで、ビールなど飲んでしまうと、ふらふらと横になってしまう。そのうち、妻が帰ってきて、怒られる。ちーも帰ってきた。6時45分。夕食を食べる。
 賞味期限が今日のヨーグルトを冷凍のブルーベリーにかけて、みんなで食べる。500mlも5人ならあっという間だ。その後、粗大ゴミのための200円シールを買いにいく。その間、他の皆さんはお風呂。あとは、絵本を読んで寝る。私は、こどものとも2006年9月号「くぬぎむらのレストラン」を読む。縦開きでスケールを大きく感じる絵本。佳作。決して傑作ではないけれど、それがいい味となっている。かぶとむしのツノイチさん、奥さんのツノナイさん、くわがたのガシガシさんと、ガシコさん。子供たちが笑う。選んだのはみーだけど、本人はすでに沈没していたので、聞いていたのは、ちーとさとだった。

私が広告を嫌うのは、それが基本的に、欠落をことさら取り上げて、見せつけるものであることにある。
広告は、物を売ることが目的として作られる。
人に対して、それが買いたいと思わせるために作られる。
何かが欲しい、何かを買いたい、買うことで何かを満たしたい。
それは結果的に、「今の私には、何かが欠けている」というメッセージになる。
現状を否定する。
そして、それが肯定されるためには、金を使い、何かを買わなくてはならない。
そういうメッセージが広告というものの、本質にある。

どこもかしこも広告に囲まれた世界に、あなたは住んでいる。
つねに、あなたは「あなたは完全ではない」というメッセージを浴びせられながら生きている。
おいしいものを食べていない。健康ではない。お金持ちではない。喜びがたりない。センスがたりない。体型が理想的ではない。給料がたりない。時間がたりない。便利さがたりない。頭の良さがたりない。自由がたりない。愛がたりない。

あなたはこんな人生で満足なのですか?
あなたはこんな人生で満足なのですか?
あなたはこんな人生で満足なのですか?
あなたはこんな人生で満足なのですか?
あなたはこんな人生で満足なのですか?
あなたはこんな人生で満足なのですか?

ずっと、そんなメッセージの中で生きていて、
まともな精神を持つことができていることに、もっと驚くべきだ。
一瞬でも喜びがあることに、すばらしいことだと、思うべきだ。

満足すべき人生だと思いなさい、というわけではないが、
こんな広告の馬鹿げたメッセージを真に受けてしまうよりも、ずっと
あなたの人生は良いものだ。

もし、あなたに改善すべき点があるとしても、
それはまずまちがいなく、金では解決出来ない。
一歩一歩、少しずつ地道な努力を続けて行くことでしか、解決出来ない。
苦しいことに耐え、またそれを乗り越えて行くことでしか、ほんとうに欲しいものは
手に入らない。

TVを見るな、雑誌を捨てろ、看板を見るな。金を使うな。
あなたは金を使うために、いきているんじゃない。

私たちは働かなくていい
おそらく約半数の人間は
なにもしなくても
食っていける
 
生きて行くために
必要なこと
食べること
住むこと
着ること
ほかにも
移動し
治療し
いろいろと楽しむこと
も必要だろう
 
けれども
それ以外のものに
私たちは
お金を使っている
 
そして
そのいらないものを買うために
働いている
 
いらないことにお金を使うということは
いらないことのために働く人がいるということだ

いらないことにお金を使う代わりに
いらないことのために働く人に
お金をあげればいい

そうすればその人たちは
働かずに遊んでいられるではないか

そんな人たちが
半分ぐらいいると私は思う

つまらない仕事など
ない

考えることができる

他人がそれをつまらないことだと
考えていても
見方によっては
あるいは工夫次第では
面白くも
楽しくもなる

どうしたら早くできるか
美しくできるか
ライバルに勝てるか

そんなふうにすれば
なんだって楽しくなってくる

問題は
そうかんがえることで
すべてがよくなってしまうことだ

奴隷のような生活すら
楽しく思えるようになる

それでいいのか?
いいのかもしれない
けれどもそれではいけないような気がする

気がするだけでなにもいえない

決して僕をお赦しなさいませぬよう

降り出した雪が
僕の肩に積もってゆく
街を白く染めながら
雪は静かに舞い落ちてゆく
 
捉えられない思いを抱えながら
僕は白い雪に
足跡をつけてゆく
 
ひとりぼっちだということ
ひとりぼっちじゃないということ
 
傷つけてしまうということ
傷つけられてしまうということ
 
そのひとつひとつが風にふかれ
僕の肩に積もってゆく
 
だれかにありがとうと言おうとしても
この道には誰もいない
 
さようならを言おうとしても
この空には届きはしない
 
抱えられない思いを引きずりながら
僕は白い雪に足跡をつけてゆく
 
白く染まる静かな街に
黒い足跡をつけてゆく
 
神よ
 
僕をお捨てになった神よ
 
もし僕をお救いになろうと
お考えならば
決して
救いの手など
さしのべてくださいませぬよう
 
白い
白い
あたたかい絨毯のような
この白い雪の上を踏みしめてゆく
僕を
決して
お赦しなさいませぬよう
 
汚れを恐れることなく
歩き続ける僕を
決して
お赦しなさいませぬよう