僕の大好きなキェシロフスキ:「終わりなし」

さて、前回に引き続き、キェシロフスキの「終わりなし」を観た。一言でいえば、鬱病の映画だった。暗い。しかし、あいかわらず終わって考えれば、往年の少女マンガみたいな話なのだが、観ているときには予想がつかない展開だった。
死んだ夫が幽霊となって現れるが、直接手は下せずにいる。なんていうのが、僕にとっては少女マンガ的なんだけど、こういう感覚は僕だけかも知れない。
裁判がからんだりして、物語はいろいろな人物の生き様が錯綜していて、面白いのだが、それらのほとんどの決着がついた後半が、凄まじい。結局、物語全部がここに至るための伏線だったのかという気がしてくる。
 最後になって、なぜか子供がピアノに向かって作曲をしていて(ほんとにピアノなんてあったことすら描かれていないのに)、そのメロディが、この映画のサントラのテーマだったりして、それに対して、狂ったように(というか狂ったのかも知れないけど)主人公の女性が子供に怒る。
後の「トリコロール青」を彷彿とさせるのだけど、子供がいきなりサントラのメロディを作曲しているなんてシーンが、どうして出てくるんだ。しかし、このリアリティを無視した映画的な、メタフィクション的なシーンがあることで、物語の中から、突如として、映画を観ている自分に引き戻される。現れるのは映画の中の物語ではなく、この物語を語るキェシロフスキだ。「これは虚構だが、現実なのだ」そういうキェシロフスキに言われているような気がする。
政治的な裁判が関係する現実的な物語が半分を占めているので、幽霊とか死んだ夫を想う妻とかといったベタな話がベタベタにならない。けれども、この映画の本質はこのベタな話にある。裁判での結末が「生きることを受け入れる」なのに、その決断が決してハッピーエンドではなく、どちらかというと敗北に近いことが、一層、この映画の最後の意味を感じさせる。
いまいちの出来だな、などと想っていたが、書いているともう一度観たくなってきた。